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OF HISTORY
「神戸の地」に息づく、金網の歴史

金属製金網の特徴

「網」というのは、鳥獣や魚などをとるために、糸や針金を編んで造った道具(広辞苑)として説明されている。以前は、その用途もかなり狭い範囲に限られていたが、近年は、新しい材料の出現や加工技術の進展により使用目的に応じた製品開発が可能になり、さ らには、生活環境の変化に対応してその製品用途もいろんな分野に広がっている。糸を材料にする場合の網製品は、その物理的な特性が極めて柔軟性に富んでいることから未使用時の折りたたみや収納性に優れ、また運搬などの扱いが比較的容易なために小規模な 農・水産業分野での使用を始め家庭内の身近なところにまで広く用いられている。しかし、材料が有機性であるため耐熱性に乏しく、また紫外線照射やバクテリアによる性能劣化が生じるなどの耐久性に欠点がある。糸を材料にする網の加工法は、主として動力を用 いた編み動作により網目を平面形成する方法であり、同じ有機性材料でもプラスチックを材料にする場合は、プラスチックの熱的特 性を利用した成型加工技術により形態保持が可能な立体形状の網目製品を造ることができる。

本来、網の特徴は、通気性、通水性、光透過性などを持ち合わせていることであり、これに形態保持性を付け加えて製品価値を高め ているものがあり、このなかで昔から身近な道具として広く親しまれてきたものに「かご」、「ざる」、「椅子」などがある。これらの 身近な材料としては竹、藤、柳、藺(い)などであり、これを手作業主体の編み、あるいは組み動作により製品が作り上げられているが、 糸材料と同様に耐久性に大きな欠陥がある。無機材料、すなわち金属を材料にする場合の網は、糸などの有機性のものと比べて金属 が耐熱性、耐腐食性に優れていること、製品用途に適応した大きさの強度、硬度、曲げ剛性などの材料特性を有していることにより 過酷な環境下に対しても耐久性、保形性が抜群の製品が得られることである。また、平面状に形成された網から大型で形が崩れにく い立体状の金網製品が容易に組み上げられることにも大きなメリットがある。

網はもともと、人間生活に不可欠な衣・食・住のなかでは「食」の生活分野に属する道具として使用されてきたものであるが、近年は、 人間社会が繁栄するにともなって生活様式が向上し、また、生活の行動範囲が拡大するにつれ豊かな生活、安全な行動を確保するた めの道具として発展してきた。現在では、耐久性に優れた金網が土木、建設、農業、水産などの分野において 不可欠な資材として多 彩な用途が展開されている。

金網業の発展の歴史

江戸時代に熟練度の高い人力作業によって始まった金網づくりは、以来、 代々にわたる後継者達によって技術開発と用途開拓に努力が重ねられ、また、近年においては、生産面での機械化実現に取り組みが展開されるなどの経緯をたどりながら今日の金網加工技術が築 き上げられ、質的にも高度な金網の量産時代が迎えられるようになった。 こうした金網づくりの進展の過程には、良質な材料が豊富に供給されるようになった伸線加工の技術進歩にも依存するところが大き いので、金網加工の発展の歴史を述べるにあたって、ここでは先ず、伸線業の発展の歩みについてふれ、次いで、代表的な金網産地 として大阪地区と東京地区の金網業発展の過程について述べることにする。

伸線業の歩み

伸線の歴史については、はっきりとしたものはないが、かなり古くから伸線加工がなされていたことは推察できる。伸線業の起源につ いては、枚岡(大阪府東大阪市)を初め、膝折(埼玉県朝霞市)、京(京都市)、浜坂(兵庫県浜坂町)、新庄(広島県大朝町)、大津( 山口県豊北町)、釖地(石川県門前町)などの各地に見いだすことができる。ここでは、伸線業の発祥地として名高い枚岡(大阪府東大阪市)地区の発展の歩みについて説明する。東大阪の伸線については、江戸末期に始まって、以来、生駒山西麓を拠点とする産地として 発達してきたことから、東大阪の伸線が産業としての発祥地であるといわれている。東大阪の伸線は、河内枚岡村(東大阪市) で「かんざし」の足にあたる銅の線材を人力によって伸線加工を始めたのが興りであるとされている。当時の伸線作業は、樫の木の丸太に孔 をあけて、線材を孔に通して人力で引っ張って伸ばすという原始的な作業であった。明治に入ると、枚岡村を中心に数軒の線屋ができ、主として銅、真鍮を材料に、仏具、 簪( かんざし)の足、足袋のこはぜ、縫い針などが作られた。

生駒山西麓に位置している枚岡村では、ここに流れている渓流を利用した 水車が発達し、水車を動力にした薬種粉末、綿実油絞りなどが盛んに行なわ れていた。明治12年頃、この水車を動力とする伸線が初めて行なわれ、以後、水車による伸線工場が集中するようになつて当地区が伸線の中心地となった。水車の直径は18尺(5.4m)で、馬力は現在のモーターに換算すると2馬力 ないし3馬力といわれ、しかし、谷川を流れる水量によって馬力の変動が余儀なくされていた。作業員は5人程度、山の中の工場で電灯のない時代であ ったため、日の出とともに作業開始、日の入りとともに終業、休日は月2回 の1日と15日の就業状況であった。材料の運搬は、朝に一人当たり60Kg程度を担いで登り、夜にはその日の製品を担いで帰るのが一日の務めであった。 当時の製品月産量は銅、真鍮など5トン程度であり、製品は大八車で大阪市内の問屋に運ばれた。

この頃のダイスには叩きダイスが使用されていた。これは、職人の腕で焼鈍された鉄板にハンマーとポンチで孔をあけ、孔に材料を通し水車を用いて 毎分10m程度の速さで伸線されていた。明治25年頃、これまで伸線の素材は銅か真鍮であったものが、初めて鉄材が使われ、以来、鉄線は安くて用途が広いことから伸線業も次第に鉄線へと代わっていった。明治34年には八幡製鉄所が線材の生産を開始したが、線材の供給は同40年になってようやく実現することになった。

大正3年には、枚岡地区にもようやく電力が供給され、翌4年には電動機の導入によって生産性が向上した。この時期は、第一次世界大戦(1914年)の 勃発時であったために鉄線業界は需要が増大し、枚岡の伸線業もまた活況を呈することになった。その後、大正7年頃の不況、関東大震災の復興需要など好況・不況を繰り返しながらも枚岡の伸線は産地としての規模を拡大してきた。また、動力としてモーターが本格的に採用された大正後半になると企業数もだんだん増え始め、生産技術も一段と向上した。伸線技術の面では、高度な熟練技術を有する職人芸によって作られていた叩きダイスに代わって、昭和10年に合金ダイスが開発されたことにより伸線の効率と品質が著しく向上した。また、この年には、枚岡と大阪を結ぶ道路が開通し、鉄線の生産地の枚岡と市場の大阪との物流面での合理化が行なわれた。

このように、大正から昭和初期にかけて線材二次製品の需要が堅実に伸び、 枚岡の鉄線業は活況をおびていくことになる。
終戦後、世情も落ち着きを取り戻した昭和30年代は、連続伸線機が普及す るとともに、生産の合理化が大幅に進められ、昭和40年代前半には最盛期 を迎えることになる。

表 2- 1 は、昭和年代における伸線加工の進展状況である。(資料:線材製品読本、線材製品協会編)
このように、東大阪の伸線工業は、江戸末期に興って以来、景気の好・不況や戦時における特需と反動不況を繰り返しながらも、産地としての地位を維持してきたが、昭和40年代末頃は、発展途上国の追い上げによる経済環境変化に直面し、昭和50年代は構造不況という厳しい環境下におかれ、そして、バブル経済の崩壊以後は、平成不況という伸線企業にとって新たなる局面を迎えることになった。

大阪地区における金網業発展の歩み

大阪地区の金網業の変遷を紐解くにあたり、その地場産業として続けられている地区が大阪府下、旧河内国の南から松原、中央部にあたる東大阪、北 にあたる四条畷に分布をみる。この三地区が金網業の地場産業として根付くにあたって、河内木綿の歴史をぬきにして考えることはできない。河内木綿の名は遠く江戸時代より著名で綿作技術の導入がもたらした意義は、当地にとって極めて重要であった。しかし、1858年(安政五年)米・英を初め諸外国との仮条約が結ばれるとともに、次第に安値で良質の外国綿の輸入が行われ、地元の綿では近代的な機械工業に適さなくなり、需要は減退、加えて明治26年には「外綿輸入 関税廃止法案」が国会を通過、綿作の作付面積は年々減反を余儀なくされ、三百年余りにわたって河内地方の経済を支える上で重要な役割を果たしてきた河内木綿は衰退、即ち、近代産業育成のために農民の犠牲が要求され、そのことから河内木綿の技術が金網に受け継がれた(松原市『郷土史研究会」)。
一方、江戸末期より生駒山系の水車で水力を利用して伸線がなされ、その 金属線が金網の原材料として供給を受けることができるようになったこと、 この二点がここ河内平野に金網業が生まれ育つ大きな要因と推察できよう。金網がわが国でいつごろから造られたかは不明であるが、金網が使用されて残在しているものとしては、大阪夏の陣のころ、1615年(元和元年)に建てられた羽曳野市(大阪府)にある吉村邸(重要文化財)の納屋の窓に銅製の亀甲網が使われ、これが最も古いものではないかとされている(線材製品協会『線材製品読本』)。変ったところでは日本の美術工芸史上、ユニークな形状や様々の素材を用いた江戸期の天下安定平和が浸透した十八世紀に本来の機能性から飛躍した武士の甲冑に(名古屋市・徳川美術館七代尾張徳川宗春所用の“黒漆塗唐冠形黒糸威兜") 亀甲金網の使用がみられる。 これらの事例から三百年前位より金網の存在を確認できよう。当時としては銅(金・銀も含め)を中心とした柔らかい金属を槌などで叩き延ばして線をつくり、手製で編んだようである。
金網の生産が明らかになるのは、明治に入ってからである。明治の始め、 大阪の立売堀に金網の元祖といわれた斎藤商店があった。このころ、枚岡 (東大阪)の伸線業も数件に増え、造られた針金は大阪の針金問屋を通して斎藤商店などの金網業者に供給されていたものとみなされる。また、金網は本・一本手で織る労働集約的な作業であった。斎藤商店の奉公人の中に中河内郡小阪村(東大阪市上小阪)出身の藤川吉松という人がいた。のちに独立し、藤川商店という金網業を開業した。当時の河内地方は前述の如く、河内木綿の衰退期にあったこともあって余剰労働者は大阪の商店などへ村を離れる者が続出した(東大阪商工会議所『東大阪の中小企業』)。
明治25年ころ、藤川商店に同郷の北尾・石橋・江口の三人が入社、明治 35年に北尾が、38年に石橋が、前後して林が帰村し独立開業した(「布施地方金網業の実体』大阪府商工経済研究所)(『東大阪市史』)。明治の末期になって、大阪では手動式の金網織機が導入され、大正の初期になると亀甲金網機が輸入されるなどして、次第に手織から機械織へと移行され、用途も次第に拡がりをみせ、やがて、製粉やセメント用のフルイがで き、昭和初期にはフェンス、飛行機の滑走路用金網も加わった。
東大阪の金網揺籃期は前述のように大阪の金網業で技術を修得し、独立開業してきたが、その後は地元の金網業の血縁関係を中心に独立するといったケースが増え、家系別では、石橋、久貝、林、西村といった氏の業者が多く みられ、その他従業員から独立開業するなどして新規参入が増えていった。 一方の松原村(松原市)も明治末期から大正にかけて各地(上田、新堂、岡、阿呆、西大塚)に織物工場があったが、河内木綿の需要減退から織機が金網に利用できるということに着目、事業の転換がなされた。
金網製造技術をこの地区に初めて導入したのは、1902年(明治35年) 阿呆の岩崎藤吉が、貸織の技術を生かすため大阪市内天満の大阪金網へ技術修得に来られ、まず、遠縁に当たる出島総次郎を招いて明治39年に独立、 のち、出島氏中心に阿呆地区の旧綿織業者間に拡まっていった。

大正10年に西田虎吉が、昭和初期に田中卯三郎・西田卯三郎は西田虎吉より技術修得独立する。このころより、大阪市の大宝金網、松井金網、藤川金網、浜口金網等が出入りするようになり、昭和9年、松井金網が阿呆町で直営、田中金網が機械織機を採用、漸次金網製造が盛況となった(松原市教育委員会・松原市郷土史研究会『松原市金網業の展開』)。古来より金網製品として最も重要な資材として渇望されていたのが、治山・治水用の蛇籠(じゃかご)(古事記『竹入圏荒籠収取其河石監葉又如此 而之沈』)であった。
1608年~1614年(慶長13年~19年)の木曽川大洪水の災害復旧に竹蛇籠が使用され(岐阜県史)、また、徳川幕府の直轄工事においても多量の蛇籠(竹を主として・藤蔓等)が使用され、河川の護岸、災害復興には欠くことができない資材として用いられた(蛇籠の知識)。当時の使用材料は主に竹で、他に樹枝、柳枝、藤蔓が用いられた。その後、 じゃかごの製造方法に多少の改良がみられたものの使用材料は依然として竹であったが、明治41年にじゃかごの材料に初めて亜鉛めっき鉄線が採用された。そして、明治42年には河川の護岸工事や水力発電所の建設工事に使用され、施工の容易性や耐久性向上に著しい効果のあることが実証された。 しかし、じゃかごの製造方法は従来通りの手作業に頼っていたため、大量生産が難しく、水害などによる緊急大量生産に対応することができず、機械化が強く望まれるところであった。明治44年になって手動式の金網製造機が考案され、編目が亀甲からひし形に改良され、さらに大正の初期には亀甲金網機がドイツから輸入され、大正初期から昭和初期までの20年間に織網・亀甲・ひし形・クリンプ金網などの製造機械(器具)の輸入および網機の開発がなされた。金網製品も従来の焼網、ザルといった家庭日用品から養鶏用の網へ、やがて製粉やセメント用のフルイに使用され昭和初期には軍需用のフェンス、飛行場の滑走路用金網も加わるなど用途は拡大された。 大平洋戦争のころの大阪の金網業には帝国、松井、東洋といったメーカーが軍需工場として指定され滑走路用などが軍から集中して発注された。
戦後の金網業界は比較的はやい時期に復興した。駐留米軍用の金網特需、さらには朝鮮動乱による特需という戦前の軍需用に始まり、家庭用金網も再開された。戦後の金網業にとって問題といえば、材料の入手難、電力不足、資金不足であった。戦争末期の材料供給制のもとで針金問屋が衰退したことで仕入れルートが混迷、この頃から金網メーカーと枚岡の伸線業とが直接的な取引関係をもつようになった。朝鮮動乱後はしばらく混迷期が続く。生産過剰による倒産、休業、大手メーカーの事業整理等にみまわれ、回復期は昭和30年代の後半から始まる高度成長期である。国内では、建築ブームによって建築・土木用金網、防虫網の需要も伸び、輸出も防虫網中心に増えていった。 このころから次第に人手不足が深刻化するとともに、構造変化の様相がみえはじめた。即ち、プラスチックの登場で金網の需要分野が浸食され、織網以外の加工技術の接近によって、金網の需要分野に変化がみられるようになった。織金網業界もこうした動きに対して、織機メーカーと共同開発して機械の改良を図るとともに、欧州から新鋭機械を導入するなどしてハイメッシュの金網生産に挑戦してきた。昭和30年当初の平織の用途としてはスクリー ン印刷が開発され、ガラスビンの印刷にステンレス金網が使用されたが、その後、電子部品の生産やプリント基板の表面実装に用いられるスクリーン印刷用の極細金網の生産が可能となった。
こうした努力の結果現在では織金網では600メッシュ以上、特殊織金網では3000メッシュ以上の製品の生産が可能になり、精度を要求されるフルイ用金網を始め、工業用フィルター、エアーバッグを含む自動車部品、化学用などあらゆる産業分野に用途が拡がっている。輸出においても、対米向けをはじめ、世界各国へ出荷されている。
近年、アジアNIES(新興工業経済地域)やアセアン諸国の追い上げが厳しくなって国際競争の時代となり、多様化している消費者のニーズに対応するため、金網業界挙げて新製品の開発、また、新市場の開拓に努力を注いでいる。

伸線の高速化の歩み

年代(昭和) 伸線速度 炭素鋼、仕上線径 φ2mm程度の場合 コイル単重 前処理及び
潤滑剤
伸線設備 ダイス 特徴
~10年頃 数m/min 80kgのコイル ・動植物油脂
・固形石けんを使用
・人力、水車、牛車などを動力として利用
・冷却なし
・たたきダイス、鋼鉄などを利用 ・非常に遅い速度での伸線
10年代 20~40m/min ・酸洗、石灰処理 ・単頭伸線機
・動力源に電動機を利用
・ドラム、ダイスなどの冷却なし
・工具鋼、ダイヤモンド (天然)の利用開始 ・電動機の採用による速度の増大
20年代 150~200m/min ・粉末潤滑剤 (金属石けん)の使用開始 ・連続伸線機の登場
・ダイス外周の冷却
・ドラムの冷却
・超硬合金(WC-Co)の使用開始 ・連続伸線機、ダイス冷却、潤滑剤、超硬合金ダイスの使用により生産性の飛躍的な向上
30年代 300~400m/min 300~400kgのコイル ・りん酸亜鉛皮膜などの化成処理の普及 ・超硬合金の普及
・ローラダイスの登場
・超硬合金(WC-Co)の使用開始 ・りん酸亜鉛皮膜処理の適用による速度の増大
40年代 ~600m/min 1~2tonのコイル ・ナローギャップ式キャプスタンによるドラム冷却 ・設備、冷却技術の向上によ る速度の増大
50年代 ~1,000m/min ・潤滑剤の品質向上 ・直接冷却法の導入及び普及 ・焼結ダイヤモンドの使用開始 ・潤滑剤冷却技術などの向上 による速度の増大

東京地区における金網業発展の歩み

金網がいつ頃から作られるようになったのかについては、明確に記述された資料が見当たらないので言及することはできないが、かなり古くから神社、 仏閣、城などで金、銀、銅などの比較的柔らかい金属を線状に伸して、きっ甲網の飾りものに使用されていたようである。金網が使用されて実在しているものとしては、前述の羽曳野(大阪府羽曳野市) にある吉村邸(重要文化財:1615年建設)の納屋の窓に銅製のきっ甲網が使われ、それが最も古いものではないかとされている。(資料:線材製品読本、線材製品協会編)
全国各地で栄えてきた金網産地の発展の歩みについては、産地ごとにさま ざまな環境条件に応じた特有のプロセスが存在するので、ここでは、代表的産地として東京地区の金網業をとりあげ、その発展の歩みについて述べる。
保存されている東京金網業組合の資料 (付録参照)によれば、明治6年に銅網職38名連記のもとで「銅網職規則」なる記録があり、その資料には、請負った仕事に関して罰則をも含む「銅網職仲間」の厳しい取り決めが記されている。連記されている銅網職人には、平三郎五世 井桁平三郎(見世持年番、元岩井町)を筆頭に、網久三世都築久七(小伝馬町)、網卯三世小山卯兵衛(通油町)などいずれも五代目、四代目、三代目の継承者や初代職人の弟子達の名が連ねられている。こうした技術継承者の世代から、当時すでに百数十年余にわたって技術が受け継がれていたことが推定される。
銅網職のなかで旧家として挙げられている網久商店(都築久七)については、その創業が1688年~1704年(元禄年間)とされており、こうしたいろんな記録から初代職人はおそらく江戸時代初期において金網作りに関係した仕事に携わっていたものと思われる。この網久商店は大門通り(現在の小伝馬町3 丁目)に仕事場を設け、店先が仕事場兼置場、茶の間の奥が土蔵の店舗であり、関東大震災で被害を受けるまでこうした元禄時代の構えを留めていた店舗である。初代銅網職人が働いていた当時の江戸は、政治・経済の中心都市としての 様相を強めていくにつれて人口は著しく増え、そして商品流通が盛んになって消費都市として発展していくが、こうした情勢のなかで商品を作り出す手ロ工業の技術も徐々に進歩し、また、その職種と職人の数が著しく増加し始めた時期である。
初代の職人は、こうした社会環境のもとで江戸幕府お抱えの飾り(錺り)職人として仕え、注文主は幕府か寺社であり、職人頭として配下の職人多数あるいは仲間、親方達の協力を得て、それらの仕事に従事していたものと考えられる。
御用達の主な品物は、日光東照宮社殿の改築、江戸城の増修にかかわる建物の内外を豪華に飾りたてる装飾品や仏具、装身具などであり、それらは飾り職人の細工によって金、銀、銅製の精緻な工芸品が作りあげられた。また、神社、寺院からも神殿、仏閣に飾る装飾品の注文も受け、これらはすべて手細工で見事な装飾品に仕上げられていた。注文品のなかには、本殿、本堂の窓につける 防鳥網、寺門の両わきに置かれている仁王像の周りを囲む防鳥網や灯明、蝋燭、火鉢を囲む防火用の安全網などがあり、これらには銅を材料にして、これを針金状に伸ばして、きっ甲網目の網製品が作りあげられていた。東京地区における金網づくりの起源は、おそらくこの頃であろうと推定さ れる。 当時は、技術の伝授と仲間の秩序維持のための徒弟制度が発達していた時期でもあり、親方としての初代の職人は、弟子を労働させながら技術の伝授を行なって一人前の職人として育てあげ、後継すべき多くの技術者をつくることが大切な役目でもあった。こうした徒弟制度のもとで、飾り職人の待遇は、金属工芸品を作りあげる技師(わざし)としてもてはやされて特別な扱いを受けることになり、その報酬もかなりの額であったとされている。さらに、親方ともなれば、親方特権を利することで一度の仕事で十年は楽に暮らせたともいわれている。 当時、江戸城下町はたびたび火事にみまわれ、火に対する関心の高まりか ら火もとを囲む防火金網の需要が一段と増大して、飾り職はますます活況を帯びることになる。その頃は、職人の業務別分化がさらに進んで「仲間」と呼ばれる同業組合の組織化が始まり、こうした社会制度のもとで、飾り職も銅網職として専門業の道を歩み、「銅網職仲間」という同業組合が組織されることになる。
明治は、産業近代化の幕開けの時代であり、手作業主体の金網加工にも徐々に近代化の波が押し寄せることになる。金網加工の近代化は、金網の材料である針金生産地の枚岡地区で水力を用いた伸線加工が始まったこと、伸線の素材が銅から鉄へと代わったこと、新型のダイスが使われ出したこと、など材料分野で進められた革新技術と表裏一体になって推し進められた。それはじゃかごの材料として鉄線の採用、手動式ではあるが金網製造機の開発という形で現れ、しかも、網目がきっ甲からひし形に改良されるなど金網加工近代化に確たる基礎が築かれることになる。以後、この製造機が金網業界に広く普及することになる。日露戦争後、川崎鉄網工場が創設され、そして同工場で開発された鉄網コンクリート工法が金網生産に一層の拍車をかけることになる。この鉄網張りの堅牢な構造体は後の関東大震災の復興工事に大いに役立つことになる。

明治時代には、手動式の金網製造機による生産活動が始まり、明治後期の製造現場では需要に応じるために大型金網機1台に作業者10人が操作するという人力体制で生産された。大正後期になって、新鋭金網機の輸入、国産金網機の改良等により次第に手動から機械に生産方式が転換していくが、金網製造機の本格的な機械化は、動力源としてモーターが採用されることによっ て実現することになる。また、機械方式によってきっ甲網、ひし形網、クリンプ網、織網の製造も可能になり、しかも、生産性が飛躍的に向上したことにより製品価格は著しく安くなり、金網の需要がますます拡大して行く。こうした情勢により東京地区では日本橋、神田等の金網業者、大阪地区では東大阪、松原、四條畷などの金網産地はますます成長していくことになる。外国からの機械の輸入は各産業界にも及び、ことに製紙業、セメント業、製鉄業などの輸入機械は、生産性向上に効果を発揮するものの付属部品の消耗が激しく、このなかで損傷した付属部品の一つとしてフィルターの補給を手がける金網業は活況を呈し、また、こうした部品補充の機会を得ることで工業用としての金網製造技術の基礎ができ、この技術が後々の新規商品開発につながっていくことになる。
こうした産業構造が著しく変化するなかで、徒弟制度によって成り立ってきた銅網職仲間においては、技術を修得し、独立開業した弟子達の作り上げた製品の販路や原料入手などを一手に引き受ける問屋を成立させ、営業活動を始める組織が生まれ、需要の著しい増加はやがては雇用者をかかえる工場経営へと発展していく。金物全般の生産活動が一段と活発化するにともない、金物全般の事業を共同責任のもとで進めようとする気運が高まり、そうした中で金網業を含む 「東京金物同業組合」が結成され、銅網職仲間は、この同業組合の金網部として組織化され、活動を始めていくことになる。
同業組合の発足当時の品目は、網類と器具類に大別され、器具類では、餅焼き、魚焼き、ねずみとり器、鳥籠、文書入れなどである。用途が次第に拡がるにつれてこれらは金物店や荒物店で売られていたが、時勢の進歩にともない養鶏網、園芸用、さらには製紙、製薬、化学工業、鉱山用へと販路が拡大し、やがては建築用資材にまで使われるようになった。この時期から生産手段が本格的に手工業から機械工業へと移行することになる。
昭和期に入って、線材の国産化が急速に進み、金網の需要も堅実に伸びていく。この時期(昭和12年)、同業組合では金網製品の規格統一化が実施される。統一製品としては、養鶏用金網、きっ甲形金網、モルタル用鉄網の3製品のメートル表示による網目、長さ、幅が規程され、合格品には組合発行の定尺合格証明標の貼付が義務づけられる。戦時には経済統制が厳しくなり、その施策として、メーカー、問屋、小売りを含めた全国組織の金網組合が設立される。戦時は材料の調達が難しくなり、活動は一時停滞するが、戦後の金網業界は、駐留軍用や朝鮮動乱による金網特需、さらには家庭用金網需要で復興し、事業規模も徐々に拡大していく。30年代前半は需要が一段と増大し、きっ甲金網は現在の10倍以上の需要があった。また、20年代、30年代は台風被害による河川復旧工事用、護岸工事用にじゃかごの需要が増大した。その後、建築ブームによって建築・ 土木用の金網、さらには工業用の需要が増大し、また、消費ブームで家庭用金網、防虫網の需要も一段と伸び、また、新たにフェンスの需要を生み出すことになった。
東京の金網加工が江戸時代の初期に興って以来、先人職人が伝えた技術をもとに、後継者たちによって技術開発と用途開拓に努力が重ねられ、景気の好・不況を繰り返しながら高度成長期には最盛期を迎えることになる。高度成長期以後は、厳しい構造不況に直面し、さらに、バブル経済崩壊後は厳しい環境条件のもとでさまざまな問題を抱えながらも新しい時代の金網づくりに向かって絶え間ない努力を続けている。
しかし、近年は、地域の立地条件の著しい変化にともなって企業の分散化が生じ、東京地区で活動してきた金網生産工場も地方への進出が目立ち、その実態は、表2-2の金網製造工場の地域別分布(生産設備の現況:鉄鋼協会編)にみられるように、大阪を中心とした近畿圏には90数社(43%)が集中しているの に対し、東京中心の関東地区では僅か20数社(10%)にすぎず、かって産地として栄えてきた関東地域の金網業界も今では金網製品の消費地に様変わりしている。(主として、井桁平三郎9代目 井桁四郎氏談話要旨を基に編集:現井桁金網株式会社社長

金網工場地域別分布

北海道 8 宮城 4 茨城 10 神奈川 5 愛知 14 石川 2 大阪 78 鳥取 1 熊本 1
秋田 1 福島 4 栃木 1 新潟 8 岐阜 1 滋賀 1 兵庫 5 香川 3 宮崎 1
岩手 4 千葉 3 群馬 1 長野 3 三重 1 京都 3 岡山 2 愛媛 2 鹿児島 1
山形 1 埼玉 2 東京 13 静岡 6 富山 1 奈良 7 広島 5 福岡 11 沖縄 2

打抜金網・パンチングメタル(Perforated Metal)

パンチングメタルは、金属板を金型で打抜いて製造される板状の孔あき製品である。打抜き孔の形状には丸孔、長孔、角孔、装飾孔など用途に応じていろんな種類のものがある。材料は、鋼板、ステンレス板、アルミ板が主に用いられ、その用途は、天井材、歩廊・床用材などの建築内外装用を始めとして、各種防音・吸音資材 や各種棚板などさまざまな分野に及んでいる。
パンチングメタル加工技術は、元々ヨーロッパで発達し、我が国には昭和の代に技術導入され、戦後になって稼動し始めたが、本格的な生産活動は昭 和40年頃から開始された。現在のところ、パンチングメタル製品のJISに関しては規定されていないが、製品の品質面に関しては各製造メーカーとも長年にわたって培われてきた豊富な経験と独自技術を発揮し、高度な内容のパンチングメタル製品が作り上げられている。近年は、加工機械の著しい進歩にともない高精度でバラエティに富んだ製品が作り出されているが、最近の製品の特徴は、製品の付加価値を高めるためにコンピューター制御によって打抜き孔の大小や打抜き孔の位置を設定し、打抜き材に文字や図柄が巧みに表現された製品が製造されている。このパターン化された製品は景観材をはじめとしてモニュメント、 インテリアなど機能性とデザイン性が要求される空間に広く用いられている。アパートなど高層住宅のベランダの目隠しに用いられている模様入りパネルは身近なところで見られるアートデザインパネルである。 使用材料は、主として、鋼板、ステンレス板、アルミニウム板であるが、用途に応じて銅・黄銅・燐青銅、ジュラルミン、ニッケル、チタンなど各種の板材が用いられている。

鋼材に対するパンチング加工は、材料に力を加えて塑性変形させるプレス 加工に属し、刃を付けた工具で材料を所要の寸法、形状にせん断する加工法 である。パンチングメタルの加工では、せん断加工の中の押抜き加工、すな わち材料に必要な寸法、形状の穴をあける加工であり、したがって、この場 合には刃(ポンチ)の寸法、形状が製品価値を左右する重要な役目を果たす ことになる。また、パンチングメタルの加工において、品質面に大きな影響 を与える技術的課題の一つにバリの発生がある。これの発生要因の一つは打 抜き時の金型のクリアランス(ポンチとダイス型との隙間)の問題であるの で、クリアランス精度の微調整が製品品質に大きな影響を及ぼすことになる。 また、生産効率を左右する要因として材料の種類・厚さ、刃の先端部の形状、 及び打抜き加圧力・速度が挙げられるが、これらは、熟練度の高い現場技術 者によって適正に処理されている。 一般的な製品の製造工程は次のような順序に従っている。

設計→金型製作⇒打抜き加工→レベラー矯正⇒検査⇒製品
打抜き加工機の形態には、一孔、並列孔、ブロック孔の機種があり、これらは、製品用途によって使い分けされている。
とくに、打抜き加工の特徴として、パンチング時の加圧力で板材に不るが生じ平坦性が失われるので、打抜き加工後は、加圧ローラに一旦通してカー製品の表面を平坦にするレベラー矯正工程が必要となる。 デザイン製品の場合には、以下のような順序にしたがって製品化される。 先ず、デザインの設計、使用板材の選定など顧客との打ち合わせから始まる。 ここで設定されたデザインをスキャナーで読み取らせた後、コンピューター処理によって孔の大きさ・ピッチ、打抜き位置などのデータをパンチング図 案としてモニター画面に表示させる。次いで、顧客と図柄確認の最終打ち合わせを行ない、金型の製作に入ってからパンチング加工に入る。パンチング加工後は、加圧ローラでパンチング材表面に平坦性を与え、切断・曲げの加工を経た後、塗装などの表面処理を行なって注文通りの製品が出来上がる。
図柄の設計→ コンピューター処理 → 図柄の最終打合わせ →金型製作
材料の選定→打抜き加工→切断・曲げ加工→表面処理→検査→製品

高性能な製造装置とその利用技術の進歩にともなって優れた品質のパンチングメタル製品が製造されており、その用途は、建築用を始め商業用、家庭用などの資材として幅広く展開されている。製品については、その品質、精度の信頼性に優れていることはもちろんのこと、製品のもつ安全性、透光性、消音、吸音効果など数々の特長を生かして、とくに、建築分野では、製品特性である音響、防音、採光、通風、断熱などの機能面に加えて、独創的な意匠デザイン面を表現した製品が内外装資材として用いられている。
特殊な用途としてビルや住宅の外壁を接着剤を用いて固定する外装施行用パンチングメタルがある。これは、ステンレス製のパンチングメタルを波型に凹凸を付与して建物の構造体と外装材(タイル、石材、レンガ等)間の支持用基板として用いられているものである。
パンチングメタルは、数々の優れた機能性とデザイン性を持ち合わせた製品であり、その需要拡大に大きな可能性がある。このため関連業界にとっては製品の用途開発に向けての企業努力が一つの使命とされている。

現在、パンチングメタルが使われれている具体例として次のものが挙げられる。

  • ①自動車関係
    内外装部品、装飾部品・パネル、ラジエターグリル、エアフィルターなど
  • ②選別・洗浄用
    穀物・種子・農産物の選別機・洗浄機などの農業・農産物機器類、鉱石・砂等の鉱物の選別・洗浄用や医療器具の洗浄用
  • ③音響・防音・保温
    各種防音・吸音装置、車輌・航空機・船舶などの防音機器・パネル・部品、保温・断熱パネル、音響装直
  • ④フィルター・ストレーナ:果汁、製糖、製粉、パルプ、精油、業務用洗濯機
  • ⑤各種通気・通音カバー
    音響機器グリル、装飾カバー、機械カバー、各種ヒーター、エアコンのカバーグリル、
    農耕機・下 ラクターのラジエターグリル・防護カバー
  • ⑥各種棚板・トレー
    海産物・農産物の乾燥用棚板、加熱コンベアー用、各種受皿
  • ⑦歩廊・床用材 スベリ止め床材、ステップ
  • ⑧建築内外装用
    天井材、壁材、間仕切り、装飾手すり、欄干目かくし、ディスプレー、浴室・調理場などの側溝蓋、ガーデン用テーブル

金網業の発展史年表

西暦 和暦 事項 参考事項
400年 ~500年 竹落 (竹製じゃかご) が中国より伝来。
1608年 ~1614年 慶長 13年 ~19年 木曽川災害復旧工事に竹製じゃかごが大量に使用される。
1615年頃 元和1年 吉村邸 (重要文化財 : 大阪府羽曳野市) の納屋の窓に銅製のきっ甲網が使用。 大阪夏の陣起きる
1688年 ~1703年 元禄1年 ~16年 銅網職人が創業開始、江戸幕府お抱えの飾り職人として仕える。
1830年 ~1843年 天保1年 ~14年 簪 (かんざし) の足に使う銅を伸線加工。

明治6年の金網業組合古記録 銅網職規則

  • 御府御規則は不及申時々御布告相守可申事
  • 請負見積書手間或は売物之議は定直段を捌不当の捌致候者後日顕はるる於ては過料金前同断可差出事但取集方月行事出頭致積置可申候
  • 職仲間一統和親致多分の仕事請負候節は、仲間一統助力可致事
  • 右為取締月行事五人づつ相定順勤可致事右之条々仲間 統衆評の上取極め申候間、後年過失無き樣堅く相守可申候為後証連印議定仕候也
  • 他の得意先へ不当の入札致本人へ迷惑掛け候者後顕はるるに於ては請負金高三分の過料金可差出事
第一大区十二小区
元岩井町弐十四番地借

明治六年拾月

西暦 和暦 事項 参考事項
1879年 明治12年 水車利用による伸線加工が始まる ( 水車1台は田畑1町歩に相当) 日光東照社社殿落成 (1617年)
1892年 明治25年 伸線素材が銅、真鍮から鉄に移行する。 日光東照社大造営完成 (1636年)
1896年 明治29年 河川法公布。主要河川に対する近代的治水事業開始。 江戸城大工事 (1606年 ~1636年)
1901年 明治34年 八幡製鉄所 (現在の新日鉄) が線材の生産を開始する。
1906年 明治39年 鉄鋼コンクリート工法開発。 日清戦争 (1894年 ~95年)
1908年 明治41年 じゃかごの材料に亜鉛めっき鉄線が使用される。
1909年 明治42年 犀川 (石川県) 護岸工事などで鉄線じゃかごの性能が実証される。 日露戦争 (1904年 ~05年)
1910年 明治43年 治水事業の全国的普及拡大。 関東・東北大水害 (1910年)
1911年 明治44年 じゃかご製造機が考案、実用化される。
作業者10名で大型金網機を操作。
網目がきっ甲からひし形に移行。
1912年頃 大正初期 ドイツからきっ甲網機が輸入される。
手作業から機械作業へ移行開始。
製紙用金網の輸入途絶により製紙用金網の国産化が始まる。
1914年 大正3年 枚岡地区に電力が供給される。
エキスパンドメタル製造機の国産1号機が開発される。
第一次世界大戦 (1914年 ~18年)
1915年 大正4年 電動機による伸線加工が始まる。
東京金物卸商同業組合創立。
銅網職仲間が金網部に組織される。
東海・関東・東北に洪水
1918年 大正7年 小倉製鋼 (現 : 住友金属工業小倉工場) で線材の生産開始。
機械方式によりきっ甲網、ひし形網、
クリンプ織、織金網の製造が可能になる。
高潮災害 (1917年)
1926年 大正15年 神戸製鋼所が線材の生産開始。 関東大震災 (1923年)
1928年前後 昭和初期 軍需用のフェンスに金網を使用。 世界経済恐慌 (1929年)
1930年 昭和5年 淀川、利根川改修竣工。 室戸台風 (1934年)
1935年 昭和10年 合金ダイスの開発、伸線の能率と品質が向上。
「松原金網組合設立。
1938年 昭和13年 鉄鋼供給統制規則が施行され、材料の割り当て制が実施される。
東京金網工業組合創立。
1939年 昭和14年 治水統制事業開始。ダムによる洪水調節などの河川総合開発。
1940年 昭和15年 大阪金網工業組合設立。
1944年 昭和19年 東京金網鉄鋼ラス卸商業組合創立。 大平洋戦争勃発 (1941年)
1946年 昭和21年 大阪金網工業組合解散。
日本蛇籠協会設立。
枕崎台風 (1945年)
1947年 昭和22年 台風被害による河川復旧工事用に蛇龍の需要増が始まる。 カスリーン台風 (1947年)
1948年頃 昭和23年頃 近畿金網工業協同組合設立。
駐米軍用、朝鮮動乱による金網特需期。
溶接金網の生産開始。
1949年 昭和24年 関西金網懇和会設立。日本蛇籠協会関西支部設立。 朝鮮戦争 (1950年 ~53年 )
1951年 昭和26年 線材製品協会設立。 梅雨前線豪雨災害
1953年 昭和28年 東大阪金網工業協同組合設立。 台風13号大災害 (1953年)
1954年 昭和29年 建設省により「蛇籠の亜鉛めっき鉄線及び構造上の基準」を決定。
1955年 昭和30年 通産省工業技術院により「亜鉛めっき鉄線製じゃかご」の日本工業規格 (JIS A 5513) が制定される。
1956年 昭和31年 超合金ダイス・ローラダイスの登場、連続伸線機が普及、生産の合理化が進む。 佐久間ダム竣工。 狩野川台風 (1958年)
1960年 昭和35年 大阪金網製品工業会設立。 伊勢湾台風、死者・不明者5041人 (1959年)
1960年 ~1964年 昭和35~45年 溶接金網の日本工業規格 (JIS G 3551) 制定される。 東海道新幹線開通 (1964年)
1960年 ~1970年 昭和35~39年 高度成長期による建築ブームで金網の需要が増大する。 東京オリンピック開催 (1964年)
1964年 昭和39年 護岸整備にコンクリート工法が全国的に普及。
1965年頃 昭和40年頃 新河川法公布。
エキスパンドメタル、パンチングメタル金網、溶接金網が市場に登場。
プラスティック製の家庭用網製品が出回る。
1970年頃 昭和45年頃 欧州から最新鋭網機を導入。
円高不況と発展途上国の追い上げによる構造不況へ突入。
東京金網工業協同組合、東京金網卸商業組合が設立。
金網生産企業の地方への分散化が生じる。
大阪万博開催 (1970年)
1971年 昭和46年 四条畷金網事業協同組合設立。
鉄筋コンクリート構造計算基準 (日本建築学会)
の中に溶接
金網が正式に採用される。
山陽新幹線 (新大阪 - 岡山) 開通 (1972年)
1971年 昭和46年 四条畷金網事業協同組合設立。
鉄筋コンクリート構造計算基準 (日本建築学会)
の中に溶接
金網が正式に採用される。
山陽新幹線 (新大阪 - 岡山) 開通 (1972年)
梅雨前線豪雨、全国的に大災害 (1972年)
1973年 昭和48年 関西フエンス工業協議会設立。
1975年 昭和50年 日本溶接金網協会設立。 山陽新幹線 (岡山一博多) 開通 (1976年)
1977年 昭和52年 溶接金網設計施工マニュアル (建築構造物用) が発刊される。
1980年頃 昭和55年頃 建設省が総合治水対策を発表。
1980年 昭和55年 焼結ダイヤモンドダイスの使用開始。
東日本金網協議会が新に組織される ( 構成員 : 東日本金網工業」
会、東日本金網協会、関東金網工業協同組合、東北金網工業会 )。
つくば万博開催 (1985年)
1987年 昭和62年 建設省より超過洪水対策が出る。
1990年 平成2年 東日本金網工業協会に改組・改称。
建設省より「多自然型川づくりの推進について」の通達が出る。
1991年 平成3年 ふとんかごタイプの角形じゃかご (かごマット) が出回る。
1993年 平成5年 溶接金網設計施工マニュアル ( 建築構造物用 ) が発刊される。
「亜鉛めっき鉄線製じゃかご」(JIS A 5513) の改正。
「溶接金網」(JIS G 3551) の改正。
1994年 平成6年 「ひし形金網」(JIS G 3552) の改正。
建設省が「環境政策大綱」を策定。
関西新国際空港開港 (1994年)
1995年 平成7年 カゴトップが市場に出回る。 神戸大震災 (1995年)
1996年 平成8年 西日本ひし形金網工業協会に改定 (旧称 : 関西フエンス工業協議会) 豊浜トンネル(北海道)崩落事故 (1996年)
1997年 平成9年 日本金網輸出協力会設立。 河川法改正。
河川事業の目的が治水、利水、河川環境の 􀀆 本柱となる。
協同組合日本じゃかご協会設立 (旧称 : 日本蛇籠協会)。
1998年 平成10年 協同組合日本じゃかご協会関西部会設立 ( 旧称 : 日本蛇籠協会関西支部 )。
1999年 平成11年 災害復旧における多自然型護岸の適用方針が出る。
建設省が第二次河川技術開発五箇年計画を発表。