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OF HISTORY
「神戸の地」に息づく、金網の歴史

プロローグprologue

『金網』と言うあまり一般の人が意識をすることが無い商品ですが、実は船や自動車 をはじめ、日本の製造業に無くてはならない商品です。その『金網』業界において、 1895年創業と言う歴史を持つ当社をこれからの展望も含めてご紹介いたします。

創業founding

初代社長である奥谷儀三郎が、淡路島より大阪の金網店に修行に行ったことに始まります。修行の後、 1895年(明治28年)5月、奥谷金網合名会社として会社を設立しました。 場所は現在の本社がある神戸市中央区相生町から少し北西に行った柳原(現在の柳原蛭子神社付近)。 『当時の情勢を考えると、兵庫・神戸の中心地が兵庫港であり、その地への交通の要であったこの地を 選んだのではないか?』と会長(5代目)の勝彦(以下勝彦)は語ります。 疑問符が付いたのには理由があります。実は戦争などのゴタゴタにより、創業当時の記録は当時の行政 から頂いた賞状や認定書が残っているだけで、後は口伝えの伝聞しか無いというのが実情です。

歴史は流れ、日本は太平洋戦争へと向かって行きました。戦争に全ての男手を取られる中、 会社を守ったのは儀三郎の妻『たけ』でした。たけを中心に、家族みんなが団結して会社を動かすことで、 会社の火を消すことは無かったと聞きます。

秘密は社名にありThe secret

しかし、一つの疑問が残ります。どうやって戦時中仕事をしていたのか?と言うことです。 つまり、金網を作るためには材料である『針金』が必要です。食料すら確保するのが困難な世情の中、針金と言う『鉄』を仕入れることをどうやって行っていたのでしょうか? それについて勝彦はこう言い切りました。

「その秘密は現在の社名にある」

戦時中の日本は統制経済を行っており、全て配給制でした。当社においても例外ではなく、政府から配給される資源を用いて会社を運営する必要がありました。 その配給を受けるには『製作所』と言う名前が付いていることが必要だったのです。 現在当社の社名に『製作所』が付くのにはこうした理由があります。『製作所』と言う社名のおかげで、戦時中に仕事を続けることが出来たのです。

転機turning point

戦後、日本経済は、GHQにより飛行機の開発を止められたこともあって、造船業が盛んになりました。 神戸には川崎重工(現在の川崎造船)・西日本重工業(現在の三菱重工)と造船業の2大企業があり、製鉄に関しても川崎重工(後の川崎製鉄、現在のJFEスチール)・神戸製鋼と日本を代表する製鉄所がありました。 そんな中、昭和23年7月、従来の合名会社から株式会社へ改組。翌24年には現在の神戸市兵庫区西出町に自社工場を設立しました。戦後の混乱期にあったにもかかわらず、すぐに会社として動くことが出来たのは、戦時中も会社を運営してきたことが大きいと思われます。

そして朝鮮戦争の開始と共に、重工業をはじめとした日本経済が活発化します。いわゆる『朝鮮特需』と呼ばれるものです。これが当社の一つの転機となりました。好景気を反映して建築ラッシュも発生。建築する時の養生用の金網を作ることになりました。今でこそシートやエキスパンドメタルを繰り返し使うことが当たり前になっていますが、当時は使い方が荒かったため、ほぼ再利用はされていなかったようです。そのため、建物の建築が行われるたびに、新しい金網の発注があったと言います。 これにより、工場はフル稼働体制となりました。当時のことを振り返り、勝彦はこう語ります。

「当時は住み込みの社員もおり、朝から晩まで働きっぱなし。休みも月2日。当時の金網は全て手作業。よくもまあこれだけ働いたものだと思いますよ。夜なべ(徹夜)も当たり前の時代でしたからね。」

どれだけ忙しかったかを物語る言葉です。そのような中、昭和37年6月、現在の神戸市中央区相生町(現在のJR神戸駅北側)に本社ビルを構えることになりました。

神戸鉄工団地協同組合へTo Cooperative Association

昭和42年に神戸市初の工業団地、『神戸鉄工団地(協)』へ加入し、明石工場を新設しました。
これに伴い西出町(神戸市兵庫区)の工場は閉鎖することになります。

神戸鉄工団地(協)とは政府の中小企業政策の一環で出来た団地協同組合という制度で、近代化=高度化=集団化というのが直結した、画期的なシステムです。
しかし、この鉄工団地に加入するには、これを推進する今の中小企業団に審査員がいて加入のための審査があります(ちなみにこの審査は現在でも行われています)。
当社が加入した当時、加入申請100社以上に対し、審査通過は25社と非常に狭い門でありました。

この鉄工団地への加入は奥谷金網に対して大きなメリットを与えました。
第一に国の審査を通過したという会社に対する『信頼』と言うメリットです。神戸鉄工団地に加入していると言うことは営業面において、他社に対するPRを行ううえで非常に価値があったのです。
第二に『相互保証制度』があったことです。お金を借りる際に『神戸鉄工団地』が保証するため、お金を借りることに不自由しなくなったということです。これにより、設備投資を行い、より良い商品を素早く生み出すことが出来るようになりました。
第三にお客さんが一気に増えたことです。つまり団地に加入している会社は全て顧客になると言うことです。組合員それぞれが持ちつ持たれつで仕事を振り合うことが出来るようになったことで、従来のお客さんに対してもアピールできる幅が広がっていきました。

時は同じくして日本の高度経済成長の幕開け、『いざなぎ景気』が始まります。工場における生産システムの構造改革を行った上で好景気を迎えるわけです。
当社は景気の波をまともに味方につけることが出来ました。

震災で学んだことWhat I learned

神戸鉄工団地(協)加入後、昭和54年7月『姫路営業所』開設、同59年『明石第2工場』増設。度重なる増資を行い、順風満帆に成長路線を進みました。ところが、平成7年1月17日午前5時46分、阪神淡路大震災と言う未曾有の災害が阪神・淡路地域を襲いました。当社も例外ではありませんでしたが、幸い被害は少なく済みました。当時を振り返って、勝彦はこう語ります。

「本社事務所は幸いにも建物自体は無事でした。私たちは直ちに各地のお客様にこの状況を一刻も早くお伝えしたい。お客様にご心配をおかけしたくないという思いから、”奥谷は無事です。大丈夫です。”というFAXを発信したんです。直後FAXを見てくださったお客様がたから励ましの言葉を頂いたり、物資を送ってくださったりした時は本当に有難く感動しました。これからもお客様のためにも頑張って行こうと強く思いましたよ。」

確かに震災と言う辛い体験をしたのですが、その一方で人の温かさを感じ、
お客様の大切さを痛感する出来事でした。

エピローグ -そして未来へ-Epilogue

平成11年ホームページ『奥谷ネット』の開設。
平成15年パンチングメタル専門サイト『パンチングワールド』の開設。平成19年9月『堺工場』開設。
そして平成20年、『神戸本社ショールーム』のオープンに至りました。
金網メーカーに何故ショールーム?とお思いの方も多いと思います。
ショールームを開設した理由は

「ホームページを作ったことでお客様が全国に広がり、
『実際の製品イメージを見たい』という要望が増えたこと、そしてブランディングの構築です」
と社長(6代目)の智彦は言い切ります。

当社はこれまでの『歴史・伝統』をきっちりと継承しつつ、
現状に満足せず常に最先端を目指し、進化し続けています。
これからも、『300年企業』を目指し、
『お客様・仕入先様・社員に選ばれる企業』として、進み続けてまいります。